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ふたば学舎の日常

このブログでは【NPO法人ふたば(ふたば学舎指定管理者)】からの情報をお伝えしています。

報告書、理論、少しばかりベンヤミン

気づけば5月・・・。この時期は旧年度の報告書作成と新年度の計画の肉付け作業で机に張り付いていることが多くなります。

過去の実践の振り返りと新たな実践の計画をしていると、どのような枠組みで動いているのかなどを考え、いつものことながら実践と理論的なこととのバランスが気になります。(以下、ぐだぐだと・・・)

先日、町山智浩さんの『映画と本の以外な関係!』(インターナショナル新書)を読んでいたら、まえがきにヴァルター・ベンヤミンの絶筆とされる「歴史の概念について」(のパウル・クレーによる水彩画『新しい天使』に言及している箇所)が引用されていて、以前にベンヤミンを読んだ時(1995年の震災の後)とちがって腑に落ちる感じがしました。『映画と~』から孫引きすると、

「彼(=新しい天使)はその顔を過去に向けている。われわれには出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局(カタストロフィー)を見る。その破局は、次から次へと絶え間なく瓦礫を積み重ね、それらの瓦礫を彼の足元に投げる。彼はおそらくそこにしばしとどまり、死者を呼び覚まし、打ち砕かれたものをつなぎ合わせたいと思っているのだろう。」(ヴァルター・ベンヤミン著、山口裕之編訳「歴史の概念について」『ベンヤミン・アンソロジー』河出文庫

腑に落ちる感じがしたというのは、ナチス・ドイツからの亡命先で自殺したとされるユダヤ人のベンヤミンのことというより、震災学習で過去のカタストロフィーに関する記憶をいかに若い世代に継承するかということを日常的に考えていたからです。つまり、過去から現在・未来へ進行していく均質な歴史記述が拾い上げることのない打ち砕かれたものの記憶をつなぎ合わせることに、われわれが過去の(敗者の沈黙の)記憶を追体験する機会が含まれているのではないかと閃き、少なからず腑に落ちたわけです。

以前、読んだベンヤミンの翻訳は岩波文庫の野村修訳で、例えば、上記の「打ち砕かれたものをつなぎ合わせたいと思っているのだろう」の所は、「破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろう」と訳されています。主観ですが、組みたてるという垂直的イメージが、新訳でつなぎ合わせるという水平的イメージに変わり、歴史上の事がらの凸凹をならす(均す)動作が見えてきたのです(これは震災学習で使える!?)。翻訳なのでいかがなものかと思いますが、私には原文のドイツ語を読む能力がないので如何ともしがたいのですが、ベンヤミンの有名な翻訳論「翻訳者の課題」ではその課題は純粋言語への志向によって「原作のこだまが呼び起される」などとあり、また、ベンヤミン歴史観の背景にある神学なども考慮すると、深入りはせずに参考までにとどめようと思います。ちなみに、ハンナ・アレントの『暗い時代の人々』(ちくま学芸文庫)では次のような記述があります。「ベンヤミンについての理解を困難にしているものは、かれが詩人となることなしに、詩的に思考していたことであり、それゆえに隠喩を言語における最大の武器とみなさざるをえなかったことであった。」

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震災学習ラボの本棚にベンヤミンが図書館で調べものをしている写真を置いてみました。ここに来られたどなたかが気づかれるといいのですが・・・。(山住)