ふたば学舎の日常

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震災学習での語り方を遠回りに考える(雑文)

今年も5月から震災学習の受け入れが始まります。5月の対象は神戸市外の中学生ということもあり、若い人たちにどう話そうかと改めて考える参考に、河出書房新社「14歳の世渡り術シリーズ」の1冊、萱野稔人著『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど』を読んでみました。

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萱野さんの著作は『国家とはなにか』以来、注目してきたので、『暴力は・・・』でも述べられている、国家が合法的に暴力への権利を独占するという主旨は知っていました。では、『暴力は・・・』においてどのように記述の仕方/語り方が異なっているのかといえば、まさしく語るように書かれており、使用語彙が(たぶん)14歳に合わされ、読み易さを考慮してか改行が多用されています。特に印象に残ったのは話の根拠を、「何度もいうようですが」とか「先ほど指摘したように」とか「どういうことかというと」というふうに、丁寧に繰り返し行っていることでした。また、突き詰めて考えるとわかること(社会通念に流されない考え方)、たとえば、善悪の道徳的基準には限界があり、理論的思考の邪魔をするといったこと(たとえば、暴力は悪だと一義的に捉えると暴力を独占する国家について理解できなくなる)が書かれてあり、読みながら「なるほど」と納得させられました。ちなみに、道徳感情の根源にある処罰感情および応報感情については同じく萱野さんの『死刑、その哲学的考察』(ちくま新書)に詳しいです。

さて、『暴力は・・・』を参考にして、中学生がわかるように話すには、使用語彙の配慮、語りの間合い、繰り返しの理由づけ、そして社会通念を超える内容(つまり知っていたけれど考えていなかったこと)、といった所が重要かと思われます。とはいえ、私が14歳だった時のことを思い出して(ほとんど忘れましたが)、中学生が『暴力は・・・』を読んで、どこまでわかるものなのか・・・よくわかりません。

山鳥重著『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』(ちくま新書)によると、わかるためには、意識に現れる像が何であるか言語を介して判断する記憶心像(記憶のストック)が必要です。そして、科学的にせよ思弁的にせよ自分で分類・整理することによってわけがわかるようになります。であれば、話の内容を相手がわかるようにするには、相手の知っている単語を使って、筋道立てて(つまりあらかじめ整理して)、意味づけしなければいけません。しかしそれだと結局、相手は自分が知っていることに情報転換するだけですから、すべて既知のものに収まってしまうでしょう。既知のベールをはがすにはどうすればいいか?『「わかる」とは・・・』から引用すると、「学校ではわからないことは試験問題とか、先生からの質問という形で与えられます。ですが、このように受け身の形で人から与えられた問題(わからないこと)が解けたからといって、知識が自分のものになるわけではありません。本当の意味でのわかる・わからないの区別の能力は人から与えられるものではありません。自分から自発的にわからないことをはっきりさせ、それを自分で解決してゆかないかぎり、自分の能力にはならないのです」。おそらく、自分でわからないことを見つける自発性が既知のベールをはがし、創造的な「わかる」に導くのでしょう。わからないことを相手に発見させるのには、萱野さんの『暴力は・・・』にあるような、知っていたけれど考えていなかった話が刺激になるのではないかと思います。おわり。

いつもながら私以外だれか読むのでしょうか??(山住)