震災学習の際に使用する手引きを作りました。2013年に作成した震災学習冊子の縮刷・改訂版です。参加者が避難所体験など学習活動をしている時にポケットからすぐ取り出せるようにA6サイズ(外折り8ページ)の大きさにしました。
ふたば学舎の震災学習は、震災に「ついて」学ぶだけでなく、被災者や支援者に「なる」ように学ぶ体験型学習であり、参加者に自分とは違う誰か他の避難者になって震災の問題を想像してもらうための「避難者として考えてみる」欄を設けています。今後の震災学習で活用する予定です。(やまずみ)
余談/私感:発生が懸念される南海トラフ地震や首都直下地震の被害想定は、被害範囲が広すぎて公的な支援=公助は間に合わず、自助は(一人だけでサバイブするのでなければ)他者と関わる社会の中で限界があり、いつ起こってもおかしくない巨大災害での共助の重要性を示唆しています。
上記の震災学習での「避難者として考えてみる」には想像力を働かせて共助あるいは互助を意識するという意図があるのですが、そこには「エンパシー」と「社会」が欠かせないのではないかと、昨日ブレイディみかこ・鴻上尚史『何とかならない時代の幸福論』(朝日新聞社出版)を読んでいて感じました。『~幸福論』では、2人の著者がそれぞれ別著作でも述べている「シンパシーとエンパシー」(ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』新潮社)と「世間と社会」(鴻上尚史・佐藤直樹『同調圧力』講談社現代新書)がキーワードとなっています。
『~幸福論』によれば、シンパシーは自然に抱く感情的な同情で、エンパシーは同情できなくてもその人の立場を想像できる能力。(蛇足で言えば、ポール・ブルームの『反共感論』[Against Empathy]では、エンパシーはさらに「情動的共感」と「認知的共感」に区別され、前者が感情的な働きであるのに対して、後者が認知的・理性的とされています。『~幸福論』で言及されるエンパシーはあくまで後者の働きです。)そして、世間は自分と利害関係がある人たちによる世界のことで、社会は利害関係のない人たちで形成される世界ということです。
2019年の台風19号の時、東京都台東区の避難所でホームレスの人が入るのを断られてニュースになりましたが、それに関して同書で鴻上尚史さんは「避難所に集まった人達は、区役所にとって世間で、ホームレスは社会、ということになるんです。結局、区の役所の人の場合は世間を選んで、社会は無視したんです」(p.52)と述べています。災害救助法の現在地救助の原則(住民に限らず、旅行者や訪問者等も含めて救助の対象となる)を無視したとも考えられますが、このニュースに対してイギリス在住のブレイディみかこさんの息子さん(中学生)は「日本人は、社会に対する信頼が足りないんじゃないか」(p.51)と言ったそうです。社会への信頼不足というのは、利害関係がある世間の人たちのことは考えられるが、世間の外の関係のない人たちのことには想像が及ばないということですが、理性的なエンパシーと社会意識さえあれば不足を補えるようにも思えます。では具体的にどうするかはさておき(『~幸福論』を読むと「教育」が大切な手がかりのようです)、社会への信頼というのは災害時の共助あるいは互助のベースであり、それには、「エンパシー」と「社会」が欠かせないのではないかと・・・。